2009年12月03日
良い人生だったのだ

夕べ、落語塾が終わって、塾生が帰ったあと、意を決して小倉のKさんに電話をした。
C(彼)を最初に見つけてくださった方だ。
だいたいのいきさつは聞いていたのだけれど、誰も彼が旅立つ時に傍にいられず
急なことに、とまどうばかりの時間がすぎていた。
Kさんは、彼が亡くなる、ほんの一日前に一緒に食事をして
「ひとりもんは、何があるかわからないんだから、連絡をとりあわないとな」
と、話をしたところで
「今年のクリスマスもまた一人なんてことのないように、三人で誰が一番に彼女をつくるか競争するか」
と軽口を叩いていて、Cも「がんばります」などと言っていたのだから
その翌日に、あんなことになるなど誰も予想はつかなかったと話された。
CとKさんは、10年以上前、高松で仕事をしていたこともあって、
その後も転勤先が一緒になったりして、会社を変わったあとも、親しくしていたのだけれど
「Cと高松にいたころ、なにも見ずに仕事ばっかりしてましたからね。今にして思うともったいないことしました」
ええ、ええ、高松に遊びにきていたとき、当時の思い出の場所を一緒にまわりましたが、
会社の事務所があった場所と、銭湯と、屋島だけで、あとは何も知らないのでびっくりしました。
あれやこれやと思い出話をして、笑ったり泣いたりしていると
「るいままさん。あれは、やつの寿命だったんですよ。Cなりの、良い人生だったと思わないとだめですよ」
と、Kさんが言った。
彼の心臓は、彼を支えるには、あまりに弱っていて、一日薬を忘れると大変なことになるまでになっていたそうだ。
「るいままさんのことは、よく話していました。叱られたことも、言ってました。
でも、Cは、るいままさんと知り合って幸せだったと思います。
あれの人生に、るいままさんがいてくれて良かった」
Kさんは、もう一度
「あれは寿命だったんです。良い人生だったんです」
と、言った。
そうですね。
私は、彼のあまりに突然の死に、どう対処していいかわからないまま、ジタバタとしていたけれど
「彼にとっての、良い人生であったのだ」
と、思おう。
「明後日、事務所は整理されます。ご両親がお片づけに行くそうです」
そうですか・・・・ もう、無くなってしまうんですね。
わぁわぁ言いながら、事務所の引っ越しを手伝って掃除をしたころを思う。日当たりの良い坂を上って
気持ちいいねぇと散歩した日を思う。
「私は、彼と知り合わなかったら九州は遠い場所だったと思うのです。
彼がいてくれたおかげで、博多も小倉も身近なまちになって、こうして、彼を通じてKさんとも話ができました。
彼が作ってくれた縁を大事にしていかないといけないと思っています」
「そうだね。るいままさん、小倉に来るときは連絡してくださいよ。お茶でものみましょう」
長い長い電話は、私たちなりの供養だった。
整理や掃除や旅支度は、大の苦手だったから、まだもたもたと荷物をまとめらずにいるはずで
私とKさんの話を、空のどこかで聞いていただろう。
※ 写真は小倉「湖月堂」の栗饅頭。
私が湖月堂の栗饅頭を買うというと
C「このへんじゃ、なんも珍しくないですよ。こげつどぉ~の くりまんじゅ~ぅって、耳にタコができるほど聞いてますし」
るいまま「そうなんだ。その栗饅頭は、日清戦争のとき、勝栗の縁起にちなんで湖月堂の創始がつくって大ヒットした商品で、栗っていうより軍都小倉にちなんだ商品だったってことは しってた?」
C「え~~ 誰もしらんと思いますよ」
るいまま「湖月堂さんっていうのは、流行をつくるところでもあって、小倉出身の作家松本清張が、ここのショーウインドーにあこがれ、新聞社勤めのころ、この店のディスプレイを手がけたことを終生ひそかな誇りとしていた・・・てな話も、当然ながら知らないわね」
C「あまりにもあたりまえなお菓子ですからねぇ、知らないですよ。るいままさん、すごいなぁ」
あれ以来、なにかにつけ湖月堂の栗饅頭送ってくれてたぁ・・・・
Posted by るいまま at 10:53│Comments(0)
│■命
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