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2025年05月20日

光源氏のこと ほんとに好きなん?



【光源氏のこと ほんとに好きなん?】

どこをどう読み解いても、#光源氏ってのは見た目がいい以外救いようのない男 だと思うのよ。

自分勝手なひどい裏切りで女たちを傷つけたり、欲望のまま幼女を誘拐監禁したり、彼のはっきりしない態度が、女たちを呪ったり呪われたりの世界に落としたり、

金銭的な援助はしても、精神的な責任を取らない逃げ体質の男にしか見えず、私は全く好きにはなれないんだが(ますます嫌いになってきた)

源氏物語にのめり込む女性は多く、美しい世界を語る。

なぜ女たちは、源氏物語や光源氏に夢中になるのか知りたくて、解説動画をたくさんみてるんだが、うえのあいさんは、これが単なる男と女の物語ではなく、#政治的な要素や人間関係の複雑さ をあげていて、なるほどなと思う午後。

帝が変わったり、右大臣家左大臣家のバランスが変わったりで、ダイレクトに暮らしが変わる時代だものな。

けど、ま、それは宮中関係のひとたちの小さな世界のこと。全ての愛人を春夏秋冬の館に置いて悦にいるなんて、ほんと馬鹿な男だよ(笑)

もう飽きてきた(笑) こんな男を待つよりひとりで畑たがやして生きるほうが、よっぽどしあわせ。

名も残らぬ庶民なのだし、自由でありたい。

式部は、末端の貴族だったからこんな世界を描いたのかもな。

とりあえず、晩ごはん食べよ。







  
Posted by るいまま at 17:31Comments(0)■るいまま明石のきみ

2025年05月20日

相変わらず不眠症は続く。



【不眠症】
5/19 goodmorning

相変わらず不眠症は続く。

トロトロと睡魔が来て、ここだ!ってところで布団にはいると、目は一気に冴える。

瞑想チャンネルで導いてもらっても、水の流れる音を聴いても雨の音をきいても、小難しい講演や、2時間に及ぶ朗読をきいても、まったく眠れず朝が来て、

4:30くらいに気を失うが、7:30には目が覚める。睡眠時間3時間。

ショートスリーパーじゃなく、単なる不眠症なのは、年齢とともに体力の回復が遅れているからで、

どこでもすぐ寝てしまっていた老人94(母)の若い頃を思うと、私はあそこまで長生きできんなと思う朝。

胡瓜のぬか漬けはうまくいったけど、茄子はもうちょい我慢がいるな。




  

2025年05月20日

自由すぎると成長しない(笑)



【自由すぎると成長しない(笑)】
5/20 goodmorning

なんと梅雨入りしたところがあるそうな。そりゃ5月も下旬だしな。

今日は、自由律俳句の提唱者 #荻原井泉水 の亡くなった日。

井泉水と言えば、小豆島で(のたれ)死んだ尾崎放哉の師匠だが、放哉の人生があまりといえばあまりだったので(笑)、

時代柄、右やら左やらに生まれる政治と繋がる文学運動に名は貸したが結局参加せず、創作の道に生きた姿が普通すぎて、名前を知るだけだったが、

この句を見れば、井泉水も自由律俳句という新しい世界を貫くことで、孤独をともに生きて来たんだなと思う。

#空をあゆむ朗々と月ひとり

自由律俳句は、季語をもたない、575の枠にいれなくてよい、自分が感じたままを表現する開放感あふれる俳句で理想とするところだが、

弟子であり、自由律俳句といえば井泉水より先に名が出る #尾崎放哉 や #種田山頭火 が、ふたりとも酒で身を持ち崩し、最終的には井泉水や同人に多大なる迷惑をかけたり、世話にならねばならぬような暮らしになったので、

自由に心のままにってのを徹底すると、いかに人間性を成長させないものかっていうのは実証済み(笑)





…………

放哉は、東京帝大で井泉水のひとつ下。帝大を卒業し保険会社に勤めるが、井泉水の自由律俳句に出会いのめり込んでいく。

放哉といえば、

#咳をしても一人

この荒涼たる孤独感を文学的にもちあげるのをきくたび、自分で選んだんじゃん、甘えんなよ!と思う私は文学者じゃないんだなと、いつも思う。

尾崎放哉を知るエピソードがwikiにまとめてあったので貼っておく。

■放哉の伝記的小説を書いた吉村昭によると、性格に甘えたところがあり、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、会社を退職に追い込まれたという。

妻に「一緒に死んでくれ」と頼んだこともあり、呆れた妻は放哉のもとを去り、保険会社の寮母として生涯を送った。

放哉は寺男などを転々とし、小さな庵と海のある場所に住みたいという理由から、晩年の8か月を小豆島の西光寺奥の院で寺男として暮らしたが、島での評判は極めて悪かった。

吉村が1976年に取材のため島を訪ねたとき、地元の人たちから「なぜあんな人間を小説にするのか」と言われたほどで、「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今彼が生きていたら、自分なら絶対に付き合わない」と、吉村自身が語っている。

それでも、島の素封家で俳人の井上一二(いのうえいちじ)と寺の住職らが支援し、近所の主婦が下の世話までして臨終まで看取った。

吉村の小説『海も暮れきる』は、海が好きだった放哉にちなんで、放哉の句「障子あけて置く海も暮れきる」から取ったもの。