2013年10月16日
国分寺からみえる讃岐七富士「六ツ目山」
讃岐富士と言えば飯野山ながら、「讃岐七富士」となると話しは広がる。
讃岐七富士とは
讃岐富士(さぬきふじ) 飯野山(いいのやま)。丸亀市・坂出市の境界にあり標高421.87m
三木富士(みきふじ) 白山(しらやま)。三木町 標高202.65m
御厩富士(みまやふじ) 六ツ目山(むつめやま)。高松市御厩町 標高317m
羽床富士(はゆかふじ) 堤山(つつまやま)。丸亀市・綾川町の境界にあり標高201.55m。
綾上富士(あやかみふじ) 高鉢山(たかはちやま)。綾川町 標高512.02m。
高瀬富士(たかせふじ) 爺神山(とかみやま) 三豊市 標高約214m。
有明富士(ありあけふじ) 江甫草山(江甫山・九十九山、つくもやま)。観音寺市 標高153.08m。
こちらの写真は、国分寺の人たちが「国分寺三富士」とよぶ、六ッ目山、伽藍山、万灯山。
このうち六ッ目山だけが讃岐七富士「御厩富士」だが、こんなに美しくみっつの山が揃うのもめずらしい。
六ッ目山の山頂には、山の名前の由来ともなっている「空堀伝説」がある。
伽藍山には行基が開いたといわれる「石鎚山讃岐別院 伽藍山万灯寺」があり、
古くから修験道の霊場として信仰を集めてきた。
讃岐七富士とは
讃岐富士(さぬきふじ) 飯野山(いいのやま)。丸亀市・坂出市の境界にあり標高421.87m
三木富士(みきふじ) 白山(しらやま)。三木町 標高202.65m
御厩富士(みまやふじ) 六ツ目山(むつめやま)。高松市御厩町 標高317m
羽床富士(はゆかふじ) 堤山(つつまやま)。丸亀市・綾川町の境界にあり標高201.55m。
綾上富士(あやかみふじ) 高鉢山(たかはちやま)。綾川町 標高512.02m。
高瀬富士(たかせふじ) 爺神山(とかみやま) 三豊市 標高約214m。
有明富士(ありあけふじ) 江甫草山(江甫山・九十九山、つくもやま)。観音寺市 標高153.08m。

こちらの写真は、国分寺の人たちが「国分寺三富士」とよぶ、六ッ目山、伽藍山、万灯山。
このうち六ッ目山だけが讃岐七富士「御厩富士」だが、こんなに美しくみっつの山が揃うのもめずらしい。
六ッ目山の山頂には、山の名前の由来ともなっている「空堀伝説」がある。
伽藍山には行基が開いたといわれる「石鎚山讃岐別院 伽藍山万灯寺」があり、
古くから修験道の霊場として信仰を集めてきた。
2013年10月16日
四国霊場八十番札所 国分寺
いよいよ、お尻に火がついてきたので、讃岐国分寺のまとめ。

■国分寺 本堂 参考 http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/6096.html
鎌倉中期の建物で、実測9間4面の規模、木造瓦葺単層屋根入母屋造り廻縁あり。
柱は円柱、組み物は和様出組、軒は二重繁垂木で、内部は内陣・外陣に別れ、
内陣天井は鏡天井、外陣は格天井となっている。
明治37年国宝となり、現在は重要文化財指定。
本堂は、昭和になって解体修理が行われた。そのときに一部、室町江戸様式になっていたが、現在はすべて鎌倉期の様式。
■国分寺 本尊 参考 http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/6194.html
寛文年間、松平頼重公の寄進により大厨子内に本尊十一面千手観音菩薩が安置。(現在は秘仏)
この仏像はケヤキの一本造り立像。一丈七勺三寸(5.7メートル)の巨像。
四十手を備え、第一手合掌、二手寶鉢、右手に錫杖、左手に鉾、左右に脇手。
格手に持ち物をとり左肩より斜めに袈裟をかけ、腰部に裳裾をまとう。温顔優美。
行基菩薩の作、弘法大師の補修と言われている。
明治34年3月国宝指定。現在重要文化財。
■国分寺 由来
白牛山・千手院・国分寺という。古儀真言宗・御室派の別格本山。
四国霊場八十番札所。
創建は奈良時代の半ば、天平13年(741年) 聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基により、
国家安穏、五穀豊穣、万民豊楽を願って建立。
本堂は古文書、国分寺記録によれば往古の行動であり、鎌倉中期の建造物。
■七重の塔 礎石
山門と金堂の中間右側にある石郡が創建時の七重の塔。
すべての国分寺は五重の塔ではなく七重の塔。
この塔趾は心礎(中心の柱が乗る)とともに17個あり、正方形の塔で、京都東寺五重の塔以上の規模。
国分寺三富士
復原史跡
参考資料 http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/7420.html
国分寺(天平時代)の復元模型

■国分寺 本堂 参考 http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/6096.html
鎌倉中期の建物で、実測9間4面の規模、木造瓦葺単層屋根入母屋造り廻縁あり。
柱は円柱、組み物は和様出組、軒は二重繁垂木で、内部は内陣・外陣に別れ、
内陣天井は鏡天井、外陣は格天井となっている。
明治37年国宝となり、現在は重要文化財指定。
本堂は、昭和になって解体修理が行われた。そのときに一部、室町江戸様式になっていたが、現在はすべて鎌倉期の様式。
■国分寺 本尊 参考 http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/6194.html
寛文年間、松平頼重公の寄進により大厨子内に本尊十一面千手観音菩薩が安置。(現在は秘仏)
この仏像はケヤキの一本造り立像。一丈七勺三寸(5.7メートル)の巨像。
四十手を備え、第一手合掌、二手寶鉢、右手に錫杖、左手に鉾、左右に脇手。
格手に持ち物をとり左肩より斜めに袈裟をかけ、腰部に裳裾をまとう。温顔優美。
行基菩薩の作、弘法大師の補修と言われている。
明治34年3月国宝指定。現在重要文化財。
■国分寺 由来
白牛山・千手院・国分寺という。古儀真言宗・御室派の別格本山。
四国霊場八十番札所。
創建は奈良時代の半ば、天平13年(741年) 聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基により、
国家安穏、五穀豊穣、万民豊楽を願って建立。
本堂は古文書、国分寺記録によれば往古の行動であり、鎌倉中期の建造物。
■七重の塔 礎石
山門と金堂の中間右側にある石郡が創建時の七重の塔。
すべての国分寺は五重の塔ではなく七重の塔。
この塔趾は心礎(中心の柱が乗る)とともに17個あり、正方形の塔で、京都東寺五重の塔以上の規模。


参考資料 http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/7420.html

2013年09月30日
法華滅罪之寺(国分尼寺)memo
さて、国分寺北部小学校から山側に上ったところにある「法華滅罪之寺」

ここは、天平13年(741年)2月14日、聖武天皇から出された「国分寺建立の詔」により、
各国に建立された国分寺の国分尼寺の尼寺のひとつ。
「国分寺建立の詔」には、
七重塔を建て、金光明最勝王経と妙法蓮華経(法華経)を写経する。
聖武天皇自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納める。
僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とするとある。
(聖武天皇は、この詔の以前から、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と大般若経を写すこと、
天平12年(740年)には法華経10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している)

国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。
大和国の東大寺は総国分寺、法華寺が総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた
寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、
尼寺には水田10町を施すこと、
僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められ、
この寺にも創建当時10名の尼が暮らしていた。
昭和3年現在の法華寺を中心に東西180~200メートル、南北180メートルの国の史跡跡に指定された。
当時の伽藍については法華寺境内に残されている礎石から
東西7軒、南北4軒の金堂があったと考えられている。
昭和53年の発掘調査により主軸が真北で、幅2メートル深さ0.9メートル規模の溝が発見されている。
これが、寺域を区画する西側の溝であったと推測される。
寺域は、1町半(165メートル四方)あったと考えられる。
国分尼寺で使用された大井戸は「七泉」とよばれ、そのうちのひとつ「大泉」は現存。
平安時代仁和2年(886)讃岐の国司「菅原道真」がこの尼寺を訪れ「法華寺白牡丹」の詩を詠んだ。

そのためか、境内には多くの白牡丹にまつわる石碑があり、


高浜虚子の句に白牡丹の写真をそえられたものも。

白牡丹の季節は春。

漫遊帖春編に特集をくみたいなと思っていたところなので、GOOD!
2013年09月26日
国分八幡memo
国分「きんしゃり食堂」から東にいった天津神社から坂を上ったところにある国分八幡宮。

このあたりは、讃岐国分寺を中心に、天平時代に栄えた町。
国分八幡も、国分寺の鎮め護るためと阿野七郷の土産神(守護神)として、
天平勝宝年間に、石川朝臣年足と藤原魚名によって創祀。
※阿野郡とは
山本郷(西庄郷)、松山郷、林田郷、鴨部郷、氏部郷、甲知郷(府中郷)、新居郷、羽床郷、山田郷から構成、国府と国分寺が置かれた。
その後、兵火によって社殿は焼失したが、
慶長2年 生駒親正によって再興。
寛永2年 大地震のために本殿が壌頽(くずれる)たが造営。
翌年3月正遷宮のとき生駒高俊の奉幣。
※奉幣
天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献すること
万治年間、焼失し再興され、以後、現在の社殿となり

「岩川八幡宮」と称されていたが、

現在は、「国分八幡宮」。
明治初年に村社となり、明治10年郷社に昇格。


明治大正時代に奉納された鳥居。

参道は広くて気持ちいい!
国分八幡の南側「大門」は、田宮坊太郎の古墳といわれており、境内山麓に「坊太郎」の塚がある。
※田宮坊太郎
江戸時代の敵討ち物戯曲の主人公。モデルは寛永18(1641)年,四国の丸亀で親の敵を討ったといわれる少年。
史実としては疑わしく,伝説上の人物と考えられる。人形浄瑠璃や歌舞伎,講談などで広まり,「金毘羅利生記物」として名高い。
歌舞伎「幼稚子敵討」(1753年初代並木正三作)を源流とし,「鍋祀貞婦競」(1777年初代並木五瓶ほか作),人形浄瑠璃「敵討稚物語」(1764年近松半二ほか作),「花上野誉石碑」(1788年司馬芝叟ほか作)などがある。「花上野」で,それまでの作品ではふたりだった子供がひとりになり,名前も坊太郎になった。また,坊太郎の乳母お辻の献身を描く「志渡寺」の場が有名である。
2013年09月24日
国分寺界隈取材 一日目終了〜




まちかど漫遊帖ガイドブック2013秋を配達しながら、
2014春に特集予定の国分寺界隈の取材開始ー。
国分寺町はとても広いまちですが、
今回は天平文化華やかなころに栄えた、国分寺界隈。
漫遊帖国分寺地区のガイド、若妻の会のあきさんが営む「きんしゃり食堂」は、史跡としての国分寺跡にも、札所としての国分寺にも近く、
食堂の前には、国分寺八幡のバス停前。
食堂の東にあし緩かな坂をのぼっていくと「国分八幡」こと岩川八幡があります。
天平年間に建てられるも兵火によって消失。慶長2年、生駒親正が再興しました。
その奥には、「如意輪寺跡」。いまは公園になっています。
東にいけば、法華滅罪之寺「国分尼寺」。建立時には10人の尼が暮らしていました。
ここは菅原道真が訪れて法華白牡丹の詩を詠んだことから白牡丹にまつわる石碑が多くあります。
そして、山の中腹、国分寺町を見渡せるあたりには、
盆栽のまちらしい、樹木の神と草花の神を祀った「盆栽神社」
詳細はおいおいに書いていきますが、復原史跡だけではなく、魅力的な場所がたくさんあります。
2013年09月24日
如意輪寺公園は火曜日休園(笑)


まちかど漫遊帖2013秋のガイドブック配りつつ、すでに2014春の準備。
特集を組もうと思っている国分寺の、如意輪寺公園で写真撮ろうと思ったら、思いっきりお休み(笑)
国分寺八幡に移動〜
2013年07月05日
漫遊帖 きんしゃり食堂からの富士!

昨日は、あの雨のなか、漫遊帖2013秋編の打ち合わせ。
つい、この間、春編がおわったとこやのにね(笑)
写真は、若妻の会 きんしゃり食堂からみえる 国分寺富士。ここはみっつ連なって見えるのが自慢です。
で、国分寺コースなので国分寺富士ともうしますが、
もちろん、お隣の町・鬼無からも美しくみえまして(笑)、そのときは鬼無富士!

デザイナーのいちりちゃんと、市民ツアープロデューサーのあきさん。
打ち合わせだけでは、なんなので、木曜日だけ開店のきんしゃり食堂でお食事(笑)

2013年06月06日
2013年06月06日
国分寺「きんしゃり食堂」本日オープン

あきさんの作るご飯が、毎週木曜日食べられるようになりました。
国分寺「きんしゃり食堂」本日オープン!
国分寺の復原模型からも近く、ごはんのあと散策も楽し。
場所は、33号線沿い国分寺コスモス至近。八幡バス停前。

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