2010年11月07日
和ごころ記録 ひとり鑑賞中〜


10月30日の和ごころ夢中きもの熱の記録DVDができてまいりまして見ております
おもしろいじゃないか(笑)
けいこさんのきもののコーディネートすごいわ
ルカさんの着付けも、倉田夫人も、タエの16のときと19と帯の結び方から襟の抜き方まで変えてくれていたんだ
ああ、感動する。
私は、疲れピークで前半はカミカミが目立つが、ま、アナウンサーちゃうしな(こらっ)
ぴよとみっけは、ほんまにええ女優さんになったなぁ
るいまま
http://ruimama.ashita-sanuki.jp/
2010年11月01日
和ごころ夢中きもの熱 at 二蝶(すべて)写真アップ~

和ごころ夢中きもの熱 at 二蝶
この企画は、去年、塩江時遊の中で企画した「和ごころ夢中きもの熱」をご覧になったみなさまから
「是非、二蝶で!」と声があがり再演となった企画です。

再演ではありますが、国の登録有形文化財でもある「料亭 二蝶」大座敷「お蝶の間」でする以上、
同じものを繰り返すことはしまいと思っておりました。

「二蝶 大座敷」は、桁行九間半、張間三間半からなる65畳半のお座敷。
折り上げ船底天井や二畳もある飾り棚など、
桜ん慕工房さんの大正時代の着物を最大限にいかす空間としては申し分のない場所です。
ですから、ここをすべて使ってのステージ作りをしたいということで、
お客様には、別室でお食事をとっていただき、異空間へ移動をしていただくことになりました。
それは、料亭「二蝶」にとっては、ほぼ全館、この「和ごころ夢中きもの熱」へ
提供せなばならないということです。







小部屋に分かれた95人のお客様に、これだけのお料理をたった1時間30分で出し切らなくてはならず、
けれど、決してその忙しさを表にださず進めなくてはなりません。
そして、問題はそれだけではなく、
昼の公演で、10000円ものチケットがほんとうに売れるのだろうか、
でも、売り切らなければ公演が成立しないし、
かといって若い出演者に、チケットノルマをつけることはできないし、
と、ギリギリの中での出発でした。
けれど、
「るいまま、うちは10人でいくからがんばって!」と、
るいまま組応援団でもある長寿04会さんから、お返事がきたり
「いっぺん二蝶いってみたいんや」「るいままの企画みてみたいんや」
「大正時代の着物に興味あるんよ!」と、思いがけないはやさで、チケットは動き
桜ん慕工房のお客様、舞踏会、あしたさぬきのブロガーさん、うたづ日本酒の会、
オペラ「蝶々夫人」に出演する、林里美さんや三木ユリさんのファンやお友達、
二蝶さんの催しもの告知で、ますますお客様は増え、予定の人数から15人も増えた
95人のお客様を迎えての開幕となりました。
*******************
では、昭和を代表する建物「料亭 二蝶 大座敷」で、大正時代のお着物をめでていただきながら、
昭和・大正・明治と、いにしえのときの時間旅行をしていただきます。

1903年(明治36年)さぬきでうまれたタエさんが青春時代を送った大正時代は、
国が文明開化を終え、普通の人々に「自由」や「芸術」や「文化」という言葉が届き始めた頃でした。

とにかく画家になりたい。その足がかりにと、タエさんは16歳のとき北海道に渡り代用教員になります。

ひょんなことから画家「鏑木清方」の内弟子がかなったタエさんは東京にでます。
住み込みで働いたのは、鏑木先生の遠縁にあたる倉田の奥様のお宅
彼女は相場師の娘として裕福にくらしていましたが、父親の事業の失敗により
15歳の娘のまま、お妾さんとなったのです。。

奥様の存在は、横浜の本宅でもご承知のことで、「東京の奥様」と呼ばれ、
暮らしぶりにご苦労はありませんでしたが、身分の違いははっきりと決められていました。

性格のきつい奥様の小間使いとして、画家の弟子として緊張の中で暮らすタエの前に、
美しく、自由に生きるシマコの出現し「自由」と「新しさ」を説きます。
お妾さんの小間使いとして働きながら画家修業をつづける自分の生活に
タエは疑問をもつようになります。

奥様からは、シマコについて注意を受けますが、その意味すら解さないまま、シマコへの憧憬は深まり、
自由に暮らそう、一緒に暮らそうというシマコの言葉に
タエの心の中には、徐々に、新しいものをもとめたい、自由に生きたいという思いがつのり
とうとう、ある日、倉田夫人においとまを申しでるのでした。
それは、鏑木清方からの破門も意味することでした。

「タエ、あんた、こうやって人に囲われる生活が嫌なんだろう。私のことを馬鹿にしてるんだろう。
でもね、あんただって、私の年になれば私の気持ちがわかるよ。女が一人生きていくのは大変なことなんだ。まして、画家で一本立ちすることが、どんなに難しいか、あんたは分かっているのかい?
なんといっても後ろ盾が大事なんだよ」
倉田夫人の言葉も師匠である鏑木清方の言葉も振り切り、倉田家を飛び出したタエは
シマコとシマコの恋人安藤とタエの、3人の自由で愉快な生活をはじめます。

けれど、そんな危うい生活は長くはつづきませんでした。
タエの中には、優しい安藤への思慕がつのり、それはやがて・・・。

安藤が田舎にかえっている夏、結核に侵されていたシマコが、
決して自分の死を恋人に知らせるなと遺言し亡くなりました。
どこが欠けてもバランスを失う危うい関係は、シマコという核が抜けた途端、
それまで押さえ込んでいたタエさんの感情が一気に吹き出してしまい、崩れて行きました。
たぶん、シマ子さんには、こうなることがわかっていたのでしょう。
「決して自分の死を、安藤さんに知らせるな」と遺言したのが、
妹のようなタエさんが、自分と同じ道を歩むことを案じてか、
それとも、タエさんにだけは、安藤さんを渡したくないという思いだったのか、
タエさん自身にも、わからなかったと言います」
大正12年、タエさんははっきりしない安藤を振り切り田舎に帰り、結婚し、
戦中戦後の大変な時代を生き抜きます。

「けれど、あれから70年の時が過ぎ。90歳となった自分の人生を振り返ったとき、
自分の心の中に、まだ安藤さんへの熱い思いが残っていることに気付きました。」
タエさんは、その思いを小説に残します。
「読む人はどう思うかわからないけれど、あのころの自分を愛おしんでやりたい。
向こう見ずで、気が強くて、恐いモノ知らずで、それでもまっすぐに生きていたころの自分を書きのこしておきたい」
そう話した93歳のタエさんは、19歳のタエさんでした

この波浮の港が発表されたのは1923年。タエさんが東京を離れた大正12年です。

波浮の港は、当時ほとんどしられていなかった伊豆大島がモデルとなり、10万枚のヒットとなりました。
しかし、作詞の野口雨情は島には一度も訪れていません。
この野口雨情が生まれた頃。1890年前後の日本は、明治維新から20年もたっていたとはいえ、
ヨーロッパやアメリカの人たちにとれば、まだ見ぬ遥か東の国でした。
日本女性をモデルにした1篇の短編小説が、戯曲になり、
その芝居をみたイタリアの若き作曲家プッチーニが、「次のオペラは、この東洋の物語にしよう」
と考えたのも、神秘あふれる日本という国へのあこがれだったのでしょう。
日本から様々な楽譜を取り寄せ、日本の風俗や習慣を調べ、
当時イタリアの大使夫人だった大山久子にも再三会って日本の事情を聞き、この作品は出来上がったのです。
******************

長崎の港を見下ろす小高い丘の上。今まさに、結婚式が行われようとしておりました。
周旋屋のゴローが、今日の花婿ピンカートンに、自分がお世話した新居がいかに素晴らしいか話しております。
結婚式に参列するためにやってきたアメリカ総領事シャープレスが、ピンカートンに花嫁のことを聞くと。
お座敷で見掛けたその可憐な姿に心奪われ、ゴローを通じて妻として迎えることにしたのだといいます。
「けど、それは、この家と同じく自由契約でして、いつでも好きに破棄できるんです。
任務を終えてアメリカに帰れば、国の女性と正式な結婚するつもりですよ。
あの蝶のような娘は、羽を傷つけてでも、この手に捕まえたいようなものなのですよ」

ピンカートンのそんな思いも知らず、花嫁の「蝶々さん」は、新居に向かっておりました。
「今は芸者となっておりますが、私はもともと武家の生まれ。豊かな暮らしをしておりました。
とある事がきっかけで、父上が切腹され、家は没落。
でも、今日花嫁となる私を、もう誰も貧しい娘とは言わないでしょう。私は日本で一番幸せな娘」
15才の蝶々さんは、この結婚を心から喜び、
親戚中のだれにも告げず、キリスト教に改宗して、ピンカートンに尽くそうとします。
あれから三年。
アメリカに帰ったピンカートンからは何の便りもなく。お金も底を尽きはじめておりました。
それでも、蝶々さんは、夫の帰りを少しも疑わず待ち続けていたのです。
女中のスズキが、「本当にお帰りになるのでしょうか。外国のご主人さまがお国に戻ったあと、お帰りになったなど、きいたことがありません」と言っても

「やめて頂戴! あの人は、コマドリが雛を抱く季節に、バラを持って帰ってくるよ!と、いったのよ」というばかり。
ある日、総領事シャープレスがピンカートンの手紙を携えてやってきます。
その手紙には、近々新妻を伴って日本に立ち寄るので、蝶々さんにその旨を伝えてほしいと言うものでした。
シャープレスは、手紙を蝶々さんに読んで聞かせようとしますが、
ピンカートンの帰りを信じる彼女を前にし、最後まで読むことができませんでした。
逆に「シャープレスさん。この子をみて。青い目をした日本の子供がいますか?この唇と金色の巻き毛をみて」
と、二人の間にできた3才の息子を見せられ、「必ず父親に、このことを伝える」と約束し、帰ることになってしまいました。

蝶々さんは、望遠鏡をとり、港を見ると、
「スズキ、アメリカの旗よ。今、錨をおろしたわ。エブラハムリンカーン号よ。ピンカートンが帰ってきたのよ。
桜の枝をゆすって花びらを降らせて頂戴。花びらの中に埋もれたいの」
「スズキ、この家じゅうを花で埋め尽くしましょう。星いっぱいの夜空のようにね」
と、ピンカートンの帰りを待ったのです。

そして、一夜が明けました。
蝶々さんは、息子やスズキとともに、一睡もせずにピンカートンを待ち続けましたが、彼は帰ってはきませんでした。
息子を抱き、蝶々さんが寝室にはいったところに、シャープレスと、
妻のケイトを伴ったピンカートンがやってきます。
シャープレスは、スズキに彼の息子を渡すよう、蝶々さんを説得してほしいといいます。
「私が手助けを? なぜです!」
シャープレスは「子供の将来のことは慎重に考えてやらなくてはなりません。
あそこにいる優しいアメリカの女性が、母として育ててくれるでしょう」と、スズキを説得するのでした。
ピンカートンの気配を感じた蝶々さんが奥から走り出ると、
そこには、見知らぬアメリカ人女性が立っておりました。
「もしかして、その方は?」
すべてを察した蝶々さんは、
「あの方がいらっしゃるのなら、お渡しいたしましょう。30分後にお越しいただけますか?」と約束し、

息子を抱き「おまえが大きくなったとき、母に捨てられたと思わないように」と言い聞かせ、別れを告げるのでした。


********************
出演者のご紹介です。
第一部
少女時代のタエ るいまま組:みっけ
東京時代のタエ るいまま組:ぴよ
倉田夫人:るいまま組 あ!さぬき落語塾: 春日家みっち
東京ガールしまこ:うらべまりこ
第二部
蝶々夫人:ソプラノ林里美
スズキ:メゾソプラノ三木ユリ
息子:かとうゆき
ピアノ:上枝(うえだ)景子
そして一部では倉田の旦那様を 二部では周旋屋ゴローを演じた:バリトン三木伸哉
衣装と衣装コーディネイト:桜ん慕工房 猿渡啓子
装飾小物全般:Matsuyoi
ヘアー・着付け:ルカヘヤー
音楽提供:浅野祥
総合プロデュース・構成・語り:るいまま

2010年10月30日
2010年10月30日
2010年10月30日
余計なことを考えないで、楽しんで。
録画してるものを、見ながら、ちょいと書き物。
ロイヤルバレエ団の吉田都さん、すごいねぇ。足の指が手の指のように体を支える。
しなやかで美しい姿の裏には、腰も膝も股関節も、爆弾をかかえながらの稽古がある。
本番にむかい追い込まなくてはいけない、でも追い込みすぎると体がこわれる。
誰もが「まだ、いける」と思い中、自分の納得できるものを見せられないのはいやだと
頂点で、ロイヤルバレエ団退団を決める。
頂点で退く・・・って、なかなかできるもんじゃないよなぁ。
最後の舞台で演出家が「よけいなこと考えないで 楽しんで」と声をかける。
44歳かぁ・・・
だらだら見てると、明日に差し障るので、そろそろ風呂に入りますが
台風は、みごとにそれましたな。
そんなもんさ~(笑)
ロイヤルバレエ団の吉田都さん、すごいねぇ。足の指が手の指のように体を支える。
しなやかで美しい姿の裏には、腰も膝も股関節も、爆弾をかかえながらの稽古がある。
本番にむかい追い込まなくてはいけない、でも追い込みすぎると体がこわれる。
誰もが「まだ、いける」と思い中、自分の納得できるものを見せられないのはいやだと
頂点で、ロイヤルバレエ団退団を決める。
頂点で退く・・・って、なかなかできるもんじゃないよなぁ。
最後の舞台で演出家が「よけいなこと考えないで 楽しんで」と声をかける。
44歳かぁ・・・
だらだら見てると、明日に差し障るので、そろそろ風呂に入りますが
台風は、みごとにそれましたな。
そんなもんさ~(笑)

2010年10月29日
2010年10月29日
2010年10月29日
2010年10月29日
こんな風に ゆるっと着付けたいねぇ

これは、竹久夢二の「宵待ち草」ですが、この詩と絵のモデルとなったのは
夢二が離婚していたとはいえ妻と息子をつれていった銚子の海で知り合った女学生「長谷川カタ」です。
その話は、ここに詳しく書いたので、割愛しますが
着物を着るとき思うのは、このくらいゆっくりと着たいということ。
きっちりと着つけてしまって動くのが窮屈になるんじゃなく
着物をきて、あたりまえに日常が送れなくては意味がないので、
いつも、ゆるゆるっと着ておりますが、この絵のようにはいかんですな。
当時の写真をみていると、玄人衆は襟をぬいていますが、普通の人たちは襟を詰め気味に着て
帯も前板できっちりかためず、ゆるっと結んでおります。
10月30日、ずっと座って話をするつもりでしたが、私の着物もみていただくために
ちょっと動こうと思いまして、そのときの着付けをゆるっとやってみようかなと
(女優さんたちは、ヘヤもメイクも着付けも ルカヘアーさんにしていただくんですが
私は、毎回、着物もメイクも着付けも、自分で好きなようにしております)
楽しいねぇ~
2010年10月27日
あわてて着物準備!

10月30日の和ごころ夢中きもの熱。
稽古をしていた、ついこの間まで
暑くて、衣装となる袷の着物を着ないといけない女優さんたちが
「本番、脱水症状になるかも」
と、心配しておりましたが
私は、いつも衣装は自前でございますから、単衣の着物を着るので大丈夫〜
と、思っておりました。
がしかし、昨日からはじまったこの寒波!
こりゃ、単衣の着物じゃまずいんじゃない?(夏の着物だしさ)
そんなこんなで出かけるのをやめて、着物の準備。
これも大正時代のお着物ですが、不思議な柄ですな(笑)
るいまま
http://ruimama.ashita-sanuki.jp/