2025年05月22日
映画「鹿の国」みてきました。
【映画「#鹿の国」雑感】

列島を引き裂くようなフォッサマグナによってできた、日本で一番高地にある諏訪盆地は、鎹のように建つ4つの大社によって鎮められている。
ここは、ひとが神とともに暮らしていた古代から続く信仰があり、信仰神はミシャグジ様と呼ばれるが、その実体は謎で、
ミシャグジ様は、諏訪大社の最高神官 神長官によって祭のときに降ろされ、神事が終わると、上げられる。
諏訪は、四季を通してたくさんの祭があり200もの神事により、清め、生まれ変わり、再生を繰り返してきた。
ここに残る 「年内神事次第旧記」には「#鹿なくてハ御神事ハすべからず」とあり、なぜ鹿なのかが、このー映画「鹿の国」のタイトルに繋がってくる。
#なぜ鹿なのか?
それを紐解くため、600年前に途絶えたと言われる御室神事が、映画の中で再現された。
神長官が「神使(おこう)さま」と呼ばれる童子と御室にこもり、ここで鹿を射止め供え、男女のこと、守るべきものなどを伝えていく。
性にもおおらかで賑やかな神事は、少年がおとなになる儀式であり、この土地をまもる覚悟を教えるものではないかと感じた。
これは、諏訪だけというより世界にもある自然との共存の教えかもしれない。
監督の #弘理子 さんは、ネパールに暮らしたことがあり、動物供犠は身近な風習だったという。
ピクニックにヤギを引いて森にでかけ、神の祠に生贄として捧げ、その後肉を捌いて料理して食べ、歌ったり踊ったりしながら皆で楽しく過ごす。
諏訪では、鹿は闇雲に獲られるものではなく諏訪大社から許されたものだけが狩りをできる。動物を狩ることが許されない社会になったときも、諏訪だけはこの許状により絶えることはなかった。
古来、日本の信仰は、とてもおおらかなものだった。神も仏も互いに認めあい、他者への敬意をもち、贄となったものも最後まで供養する。それが秩序でもあった。
近代になり、神仏分離という運動がすすめられ、仏像が壊され捨てられ、信仰に対するおおらかさが無くなった時期がある。
諏訪でも、象座に乗った普賢菩薩が、目をくり抜かれた無残な形で見つかり復元に苦労する話が挟まれ、
その後、150年ぶりに諏訪大社に多くの僧侶たちが正装で訪れ、神官が出迎えて2日間にわたり経を唱える姿は、胸をうつ。
ここに、日本信仰の尊厳を取り戻したのだ。
なぜ鹿なのか? は、明確な答えがでないまま映画はおわる。
奈良の鹿のように春日大社の神の使いと神格化された鹿ではなく、
土着の人間の暮らしに身近に存在した諏訪の鹿は、自然の中でうまれ、四季のなかで姿を変え、やがて老いると静かになくなり土にもどる。
…………
映画「鹿の国」
2025年/日本/98分
監督:弘理子
ソレイユ2で 5/16〜5/29


※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。