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2022年05月10日

志度 山門の向こう


【山門の向こう】

先日の志度のまち歩き。やはり、一番驚いたのは #志度寺 の様変わり。

15年前は、若さに任せて言いたい放題で、当時の志度寺のご住職が経営されていたらしい施設の真っ赤な建物が、せっかくの重要文化財を台無しにしていると腹をたてていたのだが、

15年後、志度寺の山門の向こうに広がったのは、雑木林のような境内だった。

志度  山門の向こう

境内にある石仏も鐘楼も、あんなに威圧的だった五重塔も緑の中に埋もれ、「こんなところにいらっしゃったのか!」と驚く。

志度  山門の向こう

志度  山門の向こう

志度  山門の向こう


仏教に詳しくないので、よくわからないが、やはり山門はひとつの結界であり、山門の向こうの世界は、こちらの世界とは違うのだろうと考える。

掃除の行き届いたお寺の境内にはいると、なんだかんだと悪企みばかり考える我が身も、清らかになったような気がするが、

緑に覆われた境内は、掃除が行き届いたというのとは別の意味で、オゾンに包まれホッとしてしまう。

雑木だけでなくお花もたくさん咲いていたので、お寺というよりイングリッシュガーデンみたいだねと話しながら、本堂と大師堂にまいらせていただいていると、本堂前に長い長い杖があった。

マイトさんが欲しがっていたのは、このサイズだねと、150センチの奈美ちゃんと記念写真。

志度  山門の向こう
志度  山門の向こう

志度  山門の向こう

志度  山門の向こう

志度  山門の向こう



元に戻して、枯山水のお庭と重森三玲のお庭をみて帰ろうとすると、緑の迷路に入り込んでしまって思わぬところに出た。

そこで、たぶん、この日、旅立たれた方であろう方に出会った。どうぞ、安らかに。


事務所に帰ってから15年前の取材メモをみていると、お遍路さんのお道具を扱う、志度 #詠智会の車谷さん夫妻 から教えていただいたお遍路さんのことがでてきた。

志度  山門の向こう

「お遍路さんが持つ「金剛杖」、あれは弘法大師の化身。そして、卒塔婆の役割もしている。88番札所大窪寺で奉納するのは、そのため。

昔は、長い長い歩き遍路の旅では、途中で命尽きる方もいらっしゃった。白装束に身を堅め、卒塔婆を手に、祈りをこめて歩き続ける、そういう覚悟ある旅なんですね。(中略)

志度寺には、年間15万人の参拝客があるといいます。その大半がお遍路さんです。

志度門前に「宿」が多いのは、四国をまわり志度につくと、あとは長尾寺、大窪寺で結願。それまでの苦労はあっても、信仰により得た喜びも大きく、これで済んでしまうのかと思うと名残惜しくなるんですよと、車谷さん」


あの日も、私は東谷さんだけで1時間も話しこんだとメモにあり、そのあと「平賀源内先生遺品館」(現平賀源内記念館)で #平賀源内顕彰会の砂川さん と待ち合わせていたのに、ずいぶんお待たせした模様。

いやはや面目ない。



………………………

ちなみに、このときの平賀源内顕彰会の砂川さんは、志度に桐下駄産業を起こした砂川家の方。

志度  山門の向こう


桐下駄の山西さんからの聞き書きを写しておきます。

志度に下駄の製造技術を運んできたのは、大内町出身の「砂山家」。現在ご当主の2代前。明治後期のこと。

高松で会得した技術を大内ではなく志度に持ってこられたのには、志度の地の利とも関係があるようです。

1,ここは、当時からでも、一日あれば京阪神に荷が運べるという便利さがあったこと。

2,門前町の商家にしても、山方の農家にしても、海方の漁師さんにしても、長男は家督を継げるものの、それ以外の子どもたちは仕事を見つけるためには高松か県外にいくしかなかったところ、ここに産業ができたことで仕事を得られたこと。労働力の確保が容易であったこと。

3,また、ここは88カ所の一番最後のコースで、当時からたくさんの人が訪れ、東さぬきの拠点として賑わっていたこと。などなど

この地で下駄をつくる技術と人手は確保したものの、どのような下駄をつくるかということになったとき、どうせ作るならば「日本一」の下駄をつくろうと「桐下駄」に特化し、材料探しから始め、新潟県五泉の桐が日本一の桐だと探し当てたわけです。

けれど、よい桐であるが故に箪笥や琴の材料に使われ、なかなか下駄を作るための量が得られず、五泉に近い「越前おじや町」、「会津喜多方」など品質の変わらない土地からの仕入れルートを見つけ出し、以後、下駄生産者の協同組合をつくって共同で材料を仕入れるようになります。

砂山家は、技術も儲けも抱え込んでしまうのではなく、技術を習得した人にはのれん分けのようなことを繰り返し、その柔軟さが、この地に下駄産業従事者を増やしていきました。

そうやって下駄生産が盛んになると、全国各地から技術者もやってきて、お互いの技術交換がはじまり、志度の職人はたくさんの技法を学び、志度の桐下駄は日本を代表する産業となっていったのです。




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