2021年08月27日
上村松園の棲霞軒雑記を読む。
【上村松園のこと】
松園の棲霞軒雑記を読む。
棲霞軒は松園のアトリエで、「人様と交際もしないで画室に籠城したきり絵三昧に耽っている」ので、
師の竹内栖鳳が、「まるで仙人の生活だな。仙人は霞を食い霞を衣として生きているから、棲霞軒としたらどうか」と名付けたそうだ。
松園の雅号は、最初の師 鈴木松年が、自分の松と、茶葉屋の子であった松園の店で宇治の銘茶が採れる茶園の話を茶商とし「松園」と名付けられた。
松園自身が、はっきり語ってはいないが、鈴木松年と松園は恋愛関係にあったか、はたまたこの頃にはよくあった師匠の無理強いかで、
松園は松年の子を懐妊するが、ひとりで生み育て上げた。
棲霞軒雑記がかかれたのは、松園がすでに名を成し、息子も画家となっているころなので、松年とのことも楽しげに書かれているが、そうじゃなくても最後まで松年には恨み言を言わなかった。
むしろ、六条御息所をモデルとした「焔」を書いた頃の年下の男との恋愛と失恋のほうが、松園には大きな人生の転換期だったようで、自身でも、なぜあれを描いたかわからないと言っている。
棲霞軒雑記のなかにある一節。
「画室に在るということは一日中で一番たのしい心から嬉しい時間である。
お茶人が松風の音を聞きながらせまい茶室に座しているのも、禅を行なう人がうす暗い僧堂で無念無想の境に静座しているのも、画家が画室で端座しているのも、その到達する境地はひとつである。
墨をすり紙をひろげて視線を一点に集めて姿勢を正せば、無念無想、そこにはなんらの雑念も入り込む余地はない。
私にとっては画室は花のうてなであり、この上もない花の極楽浄土である」
反故の筆は、こちらを書くべきだったかも。
松園は、毎朝、冷水摩擦をかかさなかった。ラジオ体操もしていたようで、とにかく常にベストコンディションでいる努力はかかさず、絵に向かいあっていた。
なかなかできるものじゃないな。
上村松園は、樋口一葉と同世代ながら、一葉は24歳で亡くなっているので、松園のほうがあとの時代のひとだと思っていた。
どちらにしろ、まだまだ女と言うだけで大変だった時代。娘が画家になるために茶葉屋をして支えた江戸生まれのお母さんも気丈なひとだったに違いない。
反故の筆は、棲霞軒雑記の冒頭。
松園という雅号は鈴木松年先生が、先生の松の一字をとって下さったのと、絵を学びはじめたころ、私の店で宇治の茶商と取引きがあり、そこに銘茶のとれる茶園があったのとで、それにチナんで園をとり、「松園」とつけたものである。たしか私の第一回出品作「四季美人図」を出すとき松年先生が、
「ひとつ雅号をつけなくては」
と、仰言って考えて下さったもので、
「松園こりゃええ、女らしい号だ」
と、自分の号のように悦んで下さった

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