2023年03月10日
みすゞ忌に思うこと
【みすゞ忌に思うこと】
3/10 goodmorning
1930年(昭5)3月10日、金子みすゞは亡くなった。今から93年前のこと。26歳だった。
空を見ながら、こんな春の息吹を感じるときに旅立ったんだなと思う。
音楽と言葉「金子みすゞ」を書いたとき、みすゞに関する膨大な資料を読んだ。読めば読むほど、みすゞが師とあおいでいた西條八十に疑問が残った。
どうして彼女をあんなに認めていながら東京に呼ばなかったのだ。作品集をすぐに出さなかったのだ。みすゞが自分を超えていくという焦りがあったのか?
亡くなる間際、彼女の作品は東京でも大いに認められていたし、迎えいれる場所もひともあった。いまと違い、地方と東京では、出会えるひとの数も刺激やチャンスの量も違う。
だからこそ、西條八十の一言で金子みすゞの人生は変わっていたような気がした。
でも、みすゞが、西條八十に会うため、娘のふーちゃんを連れ下関駅に走った日のことを思うと、たとえ、八十が「東京にこないか」と言っても行かなかったかもなぁ。
瀬戸内寂聴や宇野千代のような長寿作家は、みなさん自己に正直だ。その日の洗濯が途中であっても、いけない恋と分かっていても自分を抑えることができず100年生き続けた。
みすゞは、常に一歩下がったところから、自然やひとや事をみていた。それは控えめというのではない。
みすゞの詩を優しい癒やされるというひとがいるが、そんなぬるいものではない。むしろ、ひとを巻き込まない強さを感じる。共感を求めてはいない。
そういう意味では、みすゞも自分に正直なひとだったのだ。
ずっと文通を続けていた師 西條八十が講演の途中下関に寄ると連絡がある。みすゞは喜びを抱え、なりふり構わず下関駅に走る。しかし列車を待つ間、自分があまりにも質素な姿であることに気づき気後れする。そして、都会の象徴のような西條八十を見て、手紙ではいくらでも伝えられた言葉がでなくなってしまう。
都会に出れば、無用な処世術も必要になったかもしれない。みすゞは、そんなことで自分を失いたくなかったのか。
みすゞの人生は、いまを生きる私たちから見れば、苦しく悲しいもののように思えるが、
死ぬまで詩作を続け、我が子を思い、母に愛されたみすゞ自身は、同情などしてくれるなと思っているかもしれない。
※写真は2020年3月の音楽と言葉「金子みすゞ」at本屋ルヌガンガ の様子。
いつかは、みすゞの詩作の基になった「本屋さん」でやりたいと思っていて、作品を書いて10年目で実現した。
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