2024年07月11日
漫遊帖2024秋冬 戦国の城趾シリーズ の試し歩き。
#まちかど漫遊帖2024秋冬 城ガールの #戦国の城趾シリーズ の試し歩き。

ガイドの 城ガールの地形からみた戦国のまちづくりの解説と、かもねのレアな歴史話が、いいバランスになってきております。
今回は、城ガールとかもねがテーマにしている、#城と水運の関係性 がよくわかるうえに、高松中心市街地に近い、宮脇、扇町、西浜、錦町、番町周辺のまち歩きですので、とても参加しやすいコース。
このあたりは、昔、#寺社巡りチーム のみなさんや、元祖ミスター漫遊帖の #崎さん。佐藤隊長や渋谷隊員ともよく歩いたので、
懐かしい思いと、15年の街の変化、変わりゆくもの、変わらないものを確認するようなまち歩きになりました。
【蜂穴神社 髪授神祠】



2015年1月のようす
https://ruimama.ashita-sanuki.jp/e818405.html
【克軍寺周辺】
克軍寺 境内には小堀遠州の作庭といわれる「亀鶴の庭」があると言われているのだけど…



【恵比寿神社 木倉町周辺】
恵比寿神社もすっかり綺麗になりましたが昭和2年寄贈の灯籠はむかしのまま。
時間をはかりながら歩いているので、扇町喫茶は横目にみるだけ。






■るいままとしての365日
2011.6.26 扇町リポート
https://ruimama.ashita-sanuki.jp/e431344.html
高松最後のバラック西浜えびす神社の写真もあります。
【愛宕神社】
今日の愛宕神社の写真をアップ。合わせて、ご参考までに13年前の扇町リポートもどうぞ。
このリポートは視点はまちだけど、城と水運に視線をうつすと、どううつりどんなコースになるか楽しみ。






■るいままとしての365日
2011.6.26 扇町リポート(抜粋)
https://ruimama.ashita-sanuki.jp/e431344.html
丸亀へのみち扇町リポート
■戦後、愛宕神社内にはたくさんバラックが建ち、市がたったり、映画が来たり、芝居がきたり、賑やかな場所だったそう。(blogに写真)
昭和40年代、このあたりを収める親分の説得によって、バラックの生活者50世帯はなくなりました。
そのころの親分たちの男気がなければ、いろいろもめたかも知れないけど、人と人との関係が、まだまだちゃんとあった時代だったんだなと感じるお話でした。
玉岡さんが、ここの地形がわかるでしょうと教えてくれた絵(blogに写真)です。
今でこそ、扇町の北側の線路の向こうも家が建て込んでいますがJRの線路あたりまで海で愛宕神社は、津田の松原のような風情の神社だったことがわかります。
■この絵のなかにも大きく描かれ、その後何度も枯れかけながらも新しい芽で命をつないだ、愛宕神社にあるナギの木。
葉脈がまっすぐに流れている、この葉っぱは屋根瓦の模様にもつかわれていますが「はなれない木」と、呼ばれ、ご縁がはなれない、お金もはなれないと珍重されているようです。
■戦国時代からの道らしく、カギの手の道をカクカクと歩き、今、「扇町」とよばれている古い町並みに。
このあたりは、海縁の砂帯の道です。なので、道を中心に両側が下がっています。
砂帯の道というのは、塩水が流れ込みそうですが、その下にある礫により塩水ではなく、真水が流れ込み水脈ができています。
このあたりに、お風呂屋さんが多く残っており、酒屋さんもあるのは、そのおかげでしょう。
■この神社を建てたのは、当時の武士であり商人でもあり、また職人でもあった岡田氏。
多角的な経営者で、いろいろなジャンルの人たちとつきあいの深かった人で、あの、丹下健三設計の香川県庁東館建設のとき石の部分を担った庵治の岡田石材さんの先祖です。
当時は、江戸時代のように士農工商というはっきりとした区分がなく、こういうグローバルな人たちが、いろんな面で活躍してたんですね。
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【若一王子神社】
権現さん 若一王子神社。
今回の城と水運に視線をうつすコースは、ここが重要になりそうな感じ。




こちらも2011年のリポートを貼っておくよ。岡田氏はここも造営。というか、むしろこちらがメインだな。
■るいままとしての365日
2011.6.26 扇町リポート(抜粋)
https://ruimama.ashita-sanuki.jp/e431344.html
このあたりでは「権現さん」と呼ばれています。
高松が、生駒さま、松平さまによって開かれる前は、この扇町あたりがまちの中心で、その頃は、和歌山の熊野権現に病気治癒のために参る 熊野詣でが流行でもありました。
がしかし、もちろん、讃岐から熊のまで行けるひとなどそうそうおらず鎌倉時代後半、熊野権現の神官たちが、「ここに分社をたてませんか?」と営業にくるわけです。
高松には、熊野神社が多く、そのころ紀伊からの神官がよくきていたことがうかがわれます。
病気は、加持祈祷で治していた時代。熊野信仰は生活に一番近いところにあったのでしょう。
この信仰は、戦国時代になると伊勢信仰になり、江戸時代は、金比羅信仰へと移っていきます。
この神社の拝殿に使われている瓦は、かなり古く「御厩」の瓦である印があるのですが
それは、肉眼ではちょっとわかりません。佐藤隊長も35ミリのカメラで写して大きくするとでてきたとか。
この飾り、若一王子神社の「象鼻」。
これは象鼻らしい形をしていますが、当時は象をみたことをない人が作っているので「???」ってのもあるそうです。古い神社を訪ねたらみてみてくだされ。
【試し歩き終了〜】
まちかど漫遊帖2024秋冬 城ガールとかもねの、#戦国の城趾コース の試し歩き。
弘憲寺で昭和25年に建てられた平和塔(庵治石製)や、生駒親正夫妻のお墓、讃留霊王の祠などを参りまして、あとは八幡さんまで帰るばかりのはずが、あれやこれやと寄り道(笑)
街中は、ひとつひとつが近いので、4km 2.5時間ほどのコースでたくさん巡れました。
宮脇、扇町、錦町たありを歩くコースはいままでにも、寺社、まち、水など、さまざまなテーマでコースが作られましたが、
今回は、#戦国の城趾 チームですから、いままでとは一味違うはず。
お楽しみに!
このコースは12月上旬を予定しております。





#まちかど漫遊帖2024秋冬
#戦国の城趾
#かもね
#城ガール









2024年07月11日
猫sの感?
【猫sの感?】
7/11 goodmorning
すごい雨と雷だったね。
なぜか、かん氏がずっとベランダで警備してて、濡れては「ひんひん」鳴きながら報告にくる、もう大丈夫だから寝て!と言うのに、またベランダにいくを繰り返すので、まるで眠れないまま朝。
うちの猫があんなに落ち着かないなんて初めてなので、別の意味で怖かったよ。
今日は、城ガールと 漫遊帖2024秋冬の試し歩き。

2024年07月11日
深刻化しすぎないために。
【表裏一体】
#能狂言が表裏一体 であるのは、世を深刻化しすぎないようにするのと、ものごとは片方から見るだけじゃわからないよってことだな、きっと。
すぐに、自分は報われないと #悲劇の主人公 になりたがるひとがいるけど、そういう話は、まわりで見ていると #滑稽 なことも多い(笑)。
本人は大真面目に悲観しているんだろうけど、言ってることとやってることがばらばらで、まわりが引っ掻き回されて大迷惑。でも、本人は自分しかみえてないから反省なし。
腹もたつけど、それも、また人のなす愚かさと思えば「ええ、ネタもらいました!」になるのでご注意を!(笑)。
能「#頼政」と狂言「#通円」も同じ主題ながら、シチュエーションがまるで違う。(あらすじは後記参照)
「深刻な話を深刻だけで終わらせない。あらゆる悲劇には、その裏にお笑いがある。天照大神が天の岩戸に隠れて世の中に災いが満ちたときも神々は大笑いをしました。深刻なことこそ笑ってしまおう。それが能と狂言の関係であり、日本人古来の心性」と #安田登 さんも書いてございます。
しかし、狂言「円通」の茶屋坊主・円通が、宇治橋供養のため大勢の客に茶を点てて、ついに点て死にしたってのは、かわいそうすぎる(笑)

■能「頼政」
旅僧が宇治の里を訪れると、一人の老翁が声をかけてきたので、宇治の名所旧跡を案内してくれるように頼みます。老翁は名所をまわるうちに、平等院へと案内します。庭の扇形に残された芝を不思議に思った旅僧は、老翁にそのいわれを尋ねます。戦に敗れた源頼政がこの地で扇を敷いて自害し、その場所が「扇の芝」と呼ばれていることを老翁は語ります。旅僧が頼政を弔うと、老翁は今日が頼政の命日であることを告げ、自分が頼政の幽霊であることを明かして消えていきます。
里人から、源頼政の挙兵のいきさつと最期の様子について聞いた旅僧は、再び頼政の霊を弔い、頼政と夢で出会えるように仮寝をします。そこに、法体ながら甲冑を着た頼政の幽霊が、世のはかなさを嘆きながら現れ、僧に読経を頼みます。頼政は挙兵から平等院への逃亡のいきさつ、宇治川を挟んだ激しい合戦の様子を伝えます。さらに辞世の歌を詠んで自害するまでを語り、旅僧に弔ってくれるように頼むと、扇の芝へ帰るように消えていくのでした。
■狂言「円通」
旅の僧が宇治平等院に参詣(さんけい)します。無人の茶屋に茶湯(ちゃとう)が手向けてあるので、その土地の者を呼び出していわれを聞くと、昔、宇治橋供養の折、通円という茶屋坊主が、大勢の客に茶を点(た)てて、ついに点て死にした、今日がその命日に当たるのだと語り、僧にも弔いを勧めます。僧が茶屋の床に衣を敷いて待つうちに、通円の亡霊が現われ、僧の問いに答えて自分の最期のありさまを語ります。「都からの修行者が三百人もおしよせてきた時、通円は一人残さず茶を飲まそうと奮闘したが、ついに頼みの茶碗、柄杓(ひしゃく)も打ち割れてしまい、もはやこれまでと平等院の縁の下に団扇を敷き、辞世の和歌を詠んで死んでしまった」。そう語り終えた通円の亡霊は、僧に跡の供養を頼んで消えてしまいます。