2024年04月11日
言葉という道具
【言葉という道具】
「工藝とは何か」。赤木さん、荒谷さんの #柳宗悦 との出会いあたりから、なかなか理解し辛くなってきた。
しかし、読み進むうちに、最早「言葉で理解する」というところには無いのだと気付かされる。
読み取ってやろうとか、理解しようとか、意識的に動くほどに迷い道にはいる。
荒谷さんは、柳は美というものを、ただの感覚としてではなく、宗教的な理念として考えていたように思うと言う。
「#柳が求める真実の美 は、とらわれのない「心のありよう」。これは、知識や分別を捨て去らなくては感じられず、柳が知識ではなく「直観」でみなければいけないと繰り返し説くのは、そういう理由」
直感ではなく、直観を使うのは、野性的なものではなく、本質を見よということだと、私は理解しながら、さらに読む。
「(私たちは)ふだん、言語意識で分別された世界に生きている。あるものを「美しい」と言うとき、すでに「美しくない」ものと区別している。「私」と言えるのは、「私以外」があるから」
分けることができる #二元の世界。仏教では、こうした 分別意識が苦しみの原因 と考えられるのだと荒谷さん。
「柳が探究したのは、そういう二元意識が滅した、あるいは生まれる前の #主客未分の状態」
「(夢よりももっと深い) 非二次元的な意識は、言葉や、言葉と密接に結びついた自意識が滅した意識の極点」
宗教でさえも人間が作ったものであり、語る人間がいたのであるから、それをも取り払った宗教の土台とも言える #無色透明な意識のゼロポイント であると、この項は結ぶ。
言葉を生業にし、まやかしを繰り広げ、細々と生きる者にとって、なんとも苦しい話ではあるけれど、
実際のところ、言葉の無意味さ怖さを感じることは多い。
赤木さんも書いていたが、言葉というのは「便利な道具」で、いかようにも使える。
使えるがばかりに、重ねすぎて本質を覆ったり、捻じ曲げたり、色まで変えたりと危険な一面も持つ。
言葉を重ね見失うものがあることを「そんなものどっちでもええねん」と思えるだけ肝が座れば生きやすくなるのかもしれないが、
言葉に支配された人間(私)は、なにかと言葉で説明をつけようとして、無色透明な世界から遠ざかる。あぁ、早くこの項から抜け出したい。
…と思いながら、柳宗悦にしても、荒谷さんにしても、言葉によって無色透明なる世界を表現することに苦しさを感じたことはないのだろうか?
と今朝は本を閉じる。
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