2024年04月19日
その向こう側を
【その向こう側を】
「#工藝とは何か」。いよいよ最終章となった。赤木さん、堀畑さん、関口さんは、雨の奈良・#秋篠寺 で話をはじめる。ここには芸事の天女「伎藝天」がいる。
「うるし」という言葉は、しっとり水分を含む質感「うるおい」から来ている。「うるわしい」は生きているように潤いに満ちている。堀畑さんが「うるしの本質をついていますね」と言い、
続いて、「漆ってある意味、ウルシの木の血液じゃないですか。その血液を取られた木は死んでしまうんですよね?」と問うた言葉に、赤木さんが答える。
「死にはしないですね。苦しむでしょうけど」
ウルシの木の全身から血液を絞りとるように、ひと夏かけて樹液を採取する。最後は、根から梢の葉っぱまで通じている導管を切断し、木は枯れたように落葉を始める。
しかし、葉がすべて落ちる前にその木を切り倒すと、その切り株から同じ遺伝子を持った芽が吹き出して、15年~20年経つと立派な木になる。
そのサイクルの二番目のほうが良い漆となり、三番目はそれよりも良い。
たとえ木を切り倒しても根は生きていて広がっているから、根の先からも、また息吹く。
この生命力あふれる循環の話に「漆」の持つ力を知る。傷つけられた木は、自らを守るために樹液を流す。それには抗菌能力や抗ウイルス能力があり、硬化したあともその力は残る。
「漆の器は強くて軽くて抗菌能力もあって子どもたちの最初の食器にぴったりです」と私たちはよくアナウンスしていたが、
それはもちろんだが、命を繋いでいく力こそが、漆器を勧める理由にならなくてはいけない。単に道具としてだけではなく、漆が与えてくれたものと共に生きるという意味だ。
「工藝とは何か」を読み進むほどに、「用の美」を唱えた柳宗悦の民藝と、ここにある工藝は、やや違うのではないかと感じていた。
民藝という言葉には、生活のなかでつかわれる簡素で飾らないものや、ごつごつとしたものたちにある美を想像するが、工藝となると、それだけではないような気がする。
その思いの答えは350頁にでてくる。
民藝運動が始まる前、軽んじられていた「下手もの」にも美が宿っていることをことさら強調したがために、民藝は「下手の美」に限定されてしまった。
社会が変化し信仰の失われた時代となり、民藝は根幹となるものを失った。
そして、民藝思想が生まれた20世紀前半から抜け出せておらず、「日本民藝館のようなごつい和風の空間と親和性を持つ器物が民藝」と思われている。
時代を変えるほど革新的なものは、根強い信奉者も多く、そのぶん軽やかさを失う。どんなことも変化しながら進みいかねば古びてしまう。
しかし、背骨となるものがないまま変化だけをのぞむと、わけのわからぬ浮遊物になってしまう。
それは、たぶん工藝に限らず、どんな分野でもだ。
「工藝っていうのは、たんに生活のなかで現世利益的に役立つ、便利で手作りの自然素材の道具をつくることだけではない。(表面的に同じに見えても)見えないもの、その世界の背後にあるもの、あるいは背中合わせになっているものを探求する。そこを目指しているんです」
と語る赤木さんの言葉を、私は100円ショップの器だって使えると言われ苦しい思いをしたと話してくれた若い漆芸家に伝えたいと思う。
「手にのせられて、膝で抱えられるような小さな器であるけれど、それは茶室とか、お座敷とか、床の間とか、炉とかと同じような象徴的な意味を持っている。そこを転換点にして、世界がぐるっと入れ替わるみたいな、そういうもの。であるからこそ、ほんらいの力を持てるんじゃないかと思うんです」
赤木さんのこの言葉で、長い「工藝とは何か」の旅は終わった。
………
コロナが始まる前と後で、世界は変わったと私は思っている。時間に追われるように進むときに重宝されたのは、簡単でわかりやすく安価なものだった。忙しくて、とてもゆっくり考えてられないと思う人が多かったからだと思う。
いざ、時間ができてしまうと、その簡単で大量のとりあえずのものたちが自分に襲い来ることにきづいた。それは、道具だけではない。社会もひとも。
オセロのように、いろんなものがひっくり返っている。塗り固められた美しかったものの外壁が壊れ膿がでたように、
堅苦しく難しいと目をそらしていたものの向こう側にある、親しみある優しさや、嘘のない世界に気づくひとが増えますように。
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