2008年03月24日
ぶら~り みとよ(詫間編)調査リポート
週明け、雨もあがり、るいままでございます。
土曜日は、昼から夕方まで、三豊のみなさんと詫間をあるき、夜から夜中までたみ家と高松をあるき、ええ感じの一日でございました。
詫間のみなさんからは、「まちあるきの準備をはじめてから、自分のまちが良い町、おもしろい町って思えるようになりました」
たみ家からは、「歩いてみると、いろんなものが見えてきますね」
という言葉がでて、「あなたのまちを愛することからはじめよう」の布教(笑)と、「まちあるき」を推進している身としては、嬉しい嬉しい一日でございました。
***********************
さて、三豊市では、商工会女性部のみなさんが中心になって「まちあるき観光事業」が進んでおりまして、4月に「まちあるき」が始まります。
詳しい日程・費用はここで↓
『七福求めて ぶらーり みとよ』 三豊市商工会女性部 まちあるき観光事業)
その三豊7町のひとつ「詫間町」の、まちあるきのアウトラインが見えてきたので、一度一緒に歩いて下さいと連絡がありまして、土曜日は「詫間町」へ。
詫間は、去年のクリスマス、細川病院のクリスマスコンサートに呼んでいただき歌ったときに「いつか、まちあるき」にきますね~とお話しましたので、お約束を守れてなによりです~。
■本日のガイドは、商工会の青井さんと塩田さん。
いつも思うことですが、商工会の女将さんたちが中心となっている「まちあるき」での、ガイドさんたちの明るさ。商家を支える女性は、細かなところまで目が届くかたが多く、子どもたちへの声掛けや、ご近所のみなさんとのご挨拶など、地域とのつながりを自然に身につけています。
「ガイドをする」という非日常なことをするだけでも大変なので、なかなか自分以外のことに目を向けるのは難しいモノ。
そういう意味で、彼女たちは、ひとつめの階段をクリアしていると言えます。
■悩みは
1月に「まちあるき」の話がでて、4月が本番。商家にとって、女性にとって、年度替わりは仕事も家庭も忙しい時期で、チーム9名が集まることも難しいこと。
まちの昔の姿が減り、様子がわからないのだという声。
この悩みについては、漫遊帖も一年目は7月に準備をはじめて、ちらしパンフ・ポスターも作って9月に本番をむかえたので、まずは一気にやってみることですよと話す。
集中力をもったときの「人の力の爆発力」を信じてほしいなと。(十分な、力のあるおかあさんたちでした!!)
そして、まちの昔の姿。これは、実際歩いてみて、決して悲観するようなものではないことを実感。
塩田、造船などのおおきな産業をもったまちだけあって、贅を凝らしたものも残っており、川と海のあるまちの水運のおもしろさもあって、ガイドさんの説明しだいで、昔の姿は鮮やかに見えてきます。
■あるきます
詫間町支所を出発し、浪打八幡宮の説明をうけて、宮ノ下商店街へ(この表記が正解、詫間在住dodoさんより教えてもらいました。ありがとdodoさん~)
今は静かな住宅街の顔をしていますが、ここが詫間のメインストリーリートとして活躍していたころ、ここにはバスが通っていたんですよと、青井さん。
通りにはいってすぐにある「理容 ゴトウ」さんは現在4代目。文明開化直後(明治20年)開業のお店で、このあたりの歴史をずっと見てきました。
メインストリートに沿うようにある「夜の町」は、塩田・造船・海軍航空隊のまちとして男たちが元気な町の象徴。今も名残が残っています。
■へんこつパン
最初に訪ねるのは「へんこつパン」。
「へんこつ」という、へんこつな屋号の由来を3代目の森さんがはなしてくれます。由来は、先代の性格からだ、子どもでも覚えられる名前にするためと、いろんな理由がありますが、森さんの軽妙な語り口が楽しい時間です。
昔は、的場のあたりにあった「せんべいやいもあめ」を売るお店でした。戦後、「へんこつパン」初代が満州から帰ってきてパン屋をはじめます。
このあたりの子どもたちは、給食にでる「へんこつパンのコッペパン」で育ったんですよと、ガイドさんから説明。
つまりは、詫間の味なんですね!
100種のレシピをもち、今も80種ほどのパンをつくっていますが、天然ミネラルを含むパン、無添加パンなど、時代やお客様の要望によっていろいろな工夫をこらしています。
■資料館
ここでは、塩田の変革について、館長の馬場さんからうかがいます。
塩田については、屋島・坂出・宇多津のまちあるきでも詳しく説明を受けていますが、瀬戸内沿岸の気候や遠浅の海岸線に「塩づくり」が適していたってことですね。
塩田があるということは、単に塩づくりだけではなく、それにまつわる職業の人たちも多くいるということで、桶屋さんもたくさんいたし、砂をすく鍬「えぐり」を作るところも。
そして、農家の農閑期の仕事は、塩をいれる稲わら製のふくろ「カマス」づくり。稲わらも、今よりも長く、そうしたものを作るのに適していたようです。
今は住宅地となっていますが塩田の広がっていた場所は、平地が長くつづき広々とした雰囲気が「なるほど」と思わせます。
塩田時代から住宅だったところは、塩田との高低差をつけるため石垣で差し上げていますので、石垣のある家は古くから住宅であったと知らせます。
「こっちが住宅、こっちは塩田だったってことです」という説明に、なるほど、なるほど。
漁業のまちー塩田のまちー工業のまちとして発展してきた「詫間」は、海に向かっての「うめたて」の姿をみるとわかりやすく、そのあたりのことは、本番コースで詳しく!
■馬場さん
塩田についての説明をしてくださる、資料館の馬場さん。
歴史・産業について詳しいのは当然ですが、馬場さんの話のなかで一番おもしろいのは、馬場さんが子どもの頃のお話、結構やんちゃな少年で、その武勇伝をきいていると、
塩田のまち特有の細い路地をかけめぐる少年たちの姿がよみがえります。
まちあるきの醍醐味は、こうした人たちとふれあえることなんです。
■回転橋
丸い橋桁にレールがついていて、橋についた台車がまわり、橋が回転して船を通します。
跳ね橋なんかと同じなんだなとおもっておりますと
「ここの橋は、力じまんの男が鉄の棒でまわしていたんよ」
人力ですか??!!!
「そう、人の力で動かしていた。その間は、車も人も待ってたなぁ」と馬場さん。
歴史書のなかには、戦前までで利用は終わっていたように書かれていますが、馬場少年がまちをかけめぐっていた昭和23~24年にも確実に動いていました。
ほらね! 本に書いてあることを鵜呑みにしちゃいかんということですよ。
現場の人の声。そこに立った人のお話こそが、まちあるきの宝です!
■街道
回転橋をでて、小さな通りにはいりました。
門のある家がつづいていまして、こんな細路地に、ずいぶん立派な家がつづくものだと思っていると、ここは「街道」だった場所。
荷車一台とおれるとよかったわけで、この広さで十分ことがたりていたんですね。
そういえば・・・各地の生活道だと思っていた道が、「バイパスができるまでは国道で、その昔は**と***を繋ぐ唯一の道でした」と、よくききます。
もちろん、広い道路も必要ですが、「まちあるき」のときは
「人が歩いて」経済を動かしていた「みち」のほうがしっくりきたりします。(笑)
■片岡家
詫間には、片岡家・松田家など大きなお宅がいくつかあって、塩田時代にも勢力をわかちあっていたよう。
片岡家は、その中でも「片岡塩業組合」という一族の組合をつくっていた大庄屋。
詫間のまちあるきでは、片岡家の「庭」をみせていただけます。
往時の贅沢の極み「和洋折衷住宅」が、美しい状態で残っています。細工のひとつひとつ、吹きガラスにうつる緑、屋根瓦がみせる美しいカーブなどなど、何時間みていても飽きない
美しい日本
を、感じる お宅です。
■料亭旅館
詫間の商店街には、たくさんの料亭旅館がありました。
その中のひとつ「魚定」さんでお話をききます。
詫間で作られる「船」は、沈まない船として日本全国に知られており、その造船技術を求めて、たくさんの船主があつまってきました。
その船主や、こんぴら詣での人たちが泊まる宿として賑わっていたのです。
■宮ノ下銀座
詫間は、漁業、塩田、造船、航空隊・・・という「男のまち」の顔をもつまちであり、それを支える気っ風のいい「女のまち」でもあります。
ガイドさんの話をききながら、まちの人の声にふれながら歩いていると、活気あふれる当時の様子が見えてくるようです。
宮ノ下銀座と呼ばれる商店街では、毎日のように喧嘩もあったようですとガイドの塩田さん。火事と喧嘩が江戸下町の風物だったように、活気あふれる町には、血の熱い人が集まってくるんですね!
■安藤醤油店
創業明治28年の、安藤醤油店も、詫間の歴史をみてきたところ。
昭和元年にできた「現在の店」が今も現役です。作りつけの大きな金庫や、昭和元年から一度も割れずに残っている、お店の正面のガラス。
昭和の贅を感じます。
4代目の女将さんのおはなしも楽しく、ここで醤油を味わいます。
そんなこんなで2時間30分。
海辺の「三崎」さんで、軽く食事をいただきながら、本日の反省会。
調査指導をしていた、S藤隊長や、S谷隊員、宇多津の玉井ちゃんや西川くん、三豊のほかの町のみなさんからも、いろいろ大事な指摘があり、
青井さん、塩田さんも、4月にむけての微調整にはいります。
******************
今回は、商工会のみなさんが中心となっての、詫間の商工をコンセプトにコースが作られています。
けれど、詫間には、ほかにもいっぱい楽しさがあるようで、帰ってきてから検索をしていると、
あしたさぬき「あいしいもの日記」のさらだくらぶさんが、「荘内半島浦島太郎伝説廻りはいかがでしょうか」、と、レスポンスをいれてくださってました。
■まちあるきは、大きな移動ができません。
せいぜい3時間、3~5キロ。
でも、バスで点をつなぐだけの「旅」ではない、コアな楽しさがあります。
そして、旅を職業にしているひとではなく、その「まちの人」の人が、「愛するまち」をご案内するという形である限り、
「うちのまちには、なにもない」
なんてことは、絶対ないのです!
「あなたのまちを愛する」ことからはじめてみませんか?
「あなたの愛するまち」を、私に紹介してくれませんか?
るいまま
************************
まちかど漫遊帖2008春編 予約状況もええ感じで、人気コースはどんどん埋まっていってますので、ご予約お早めに!!
土曜日は、昼から夕方まで、三豊のみなさんと詫間をあるき、夜から夜中までたみ家と高松をあるき、ええ感じの一日でございました。
詫間のみなさんからは、「まちあるきの準備をはじめてから、自分のまちが良い町、おもしろい町って思えるようになりました」
たみ家からは、「歩いてみると、いろんなものが見えてきますね」
という言葉がでて、「あなたのまちを愛することからはじめよう」の布教(笑)と、「まちあるき」を推進している身としては、嬉しい嬉しい一日でございました。
***********************
さて、三豊市では、商工会女性部のみなさんが中心になって「まちあるき観光事業」が進んでおりまして、4月に「まちあるき」が始まります。
詳しい日程・費用はここで↓
『七福求めて ぶらーり みとよ』 三豊市商工会女性部 まちあるき観光事業)
その三豊7町のひとつ「詫間町」の、まちあるきのアウトラインが見えてきたので、一度一緒に歩いて下さいと連絡がありまして、土曜日は「詫間町」へ。
詫間は、去年のクリスマス、細川病院のクリスマスコンサートに呼んでいただき歌ったときに「いつか、まちあるき」にきますね~とお話しましたので、お約束を守れてなによりです~。
■本日のガイドは、商工会の青井さんと塩田さん。
いつも思うことですが、商工会の女将さんたちが中心となっている「まちあるき」での、ガイドさんたちの明るさ。商家を支える女性は、細かなところまで目が届くかたが多く、子どもたちへの声掛けや、ご近所のみなさんとのご挨拶など、地域とのつながりを自然に身につけています。
「ガイドをする」という非日常なことをするだけでも大変なので、なかなか自分以外のことに目を向けるのは難しいモノ。
そういう意味で、彼女たちは、ひとつめの階段をクリアしていると言えます。
■悩みは
1月に「まちあるき」の話がでて、4月が本番。商家にとって、女性にとって、年度替わりは仕事も家庭も忙しい時期で、チーム9名が集まることも難しいこと。
まちの昔の姿が減り、様子がわからないのだという声。
この悩みについては、漫遊帖も一年目は7月に準備をはじめて、ちらしパンフ・ポスターも作って9月に本番をむかえたので、まずは一気にやってみることですよと話す。
集中力をもったときの「人の力の爆発力」を信じてほしいなと。(十分な、力のあるおかあさんたちでした!!)
そして、まちの昔の姿。これは、実際歩いてみて、決して悲観するようなものではないことを実感。
塩田、造船などのおおきな産業をもったまちだけあって、贅を凝らしたものも残っており、川と海のあるまちの水運のおもしろさもあって、ガイドさんの説明しだいで、昔の姿は鮮やかに見えてきます。
■あるきます
詫間町支所を出発し、浪打八幡宮の説明をうけて、宮ノ下商店街へ(この表記が正解、詫間在住dodoさんより教えてもらいました。ありがとdodoさん~)
今は静かな住宅街の顔をしていますが、ここが詫間のメインストリーリートとして活躍していたころ、ここにはバスが通っていたんですよと、青井さん。
通りにはいってすぐにある「理容 ゴトウ」さんは現在4代目。文明開化直後(明治20年)開業のお店で、このあたりの歴史をずっと見てきました。
メインストリートに沿うようにある「夜の町」は、塩田・造船・海軍航空隊のまちとして男たちが元気な町の象徴。今も名残が残っています。
■へんこつパン
最初に訪ねるのは「へんこつパン」。
「へんこつ」という、へんこつな屋号の由来を3代目の森さんがはなしてくれます。由来は、先代の性格からだ、子どもでも覚えられる名前にするためと、いろんな理由がありますが、森さんの軽妙な語り口が楽しい時間です。
昔は、的場のあたりにあった「せんべいやいもあめ」を売るお店でした。戦後、「へんこつパン」初代が満州から帰ってきてパン屋をはじめます。
このあたりの子どもたちは、給食にでる「へんこつパンのコッペパン」で育ったんですよと、ガイドさんから説明。
つまりは、詫間の味なんですね!
100種のレシピをもち、今も80種ほどのパンをつくっていますが、天然ミネラルを含むパン、無添加パンなど、時代やお客様の要望によっていろいろな工夫をこらしています。
■資料館
ここでは、塩田の変革について、館長の馬場さんからうかがいます。
塩田については、屋島・坂出・宇多津のまちあるきでも詳しく説明を受けていますが、瀬戸内沿岸の気候や遠浅の海岸線に「塩づくり」が適していたってことですね。
塩田があるということは、単に塩づくりだけではなく、それにまつわる職業の人たちも多くいるということで、桶屋さんもたくさんいたし、砂をすく鍬「えぐり」を作るところも。
そして、農家の農閑期の仕事は、塩をいれる稲わら製のふくろ「カマス」づくり。稲わらも、今よりも長く、そうしたものを作るのに適していたようです。
今は住宅地となっていますが塩田の広がっていた場所は、平地が長くつづき広々とした雰囲気が「なるほど」と思わせます。
塩田時代から住宅だったところは、塩田との高低差をつけるため石垣で差し上げていますので、石垣のある家は古くから住宅であったと知らせます。
「こっちが住宅、こっちは塩田だったってことです」という説明に、なるほど、なるほど。
漁業のまちー塩田のまちー工業のまちとして発展してきた「詫間」は、海に向かっての「うめたて」の姿をみるとわかりやすく、そのあたりのことは、本番コースで詳しく!
■馬場さん
塩田についての説明をしてくださる、資料館の馬場さん。
歴史・産業について詳しいのは当然ですが、馬場さんの話のなかで一番おもしろいのは、馬場さんが子どもの頃のお話、結構やんちゃな少年で、その武勇伝をきいていると、
塩田のまち特有の細い路地をかけめぐる少年たちの姿がよみがえります。
まちあるきの醍醐味は、こうした人たちとふれあえることなんです。
■回転橋
丸い橋桁にレールがついていて、橋についた台車がまわり、橋が回転して船を通します。
跳ね橋なんかと同じなんだなとおもっておりますと
「ここの橋は、力じまんの男が鉄の棒でまわしていたんよ」
人力ですか??!!!
「そう、人の力で動かしていた。その間は、車も人も待ってたなぁ」と馬場さん。
歴史書のなかには、戦前までで利用は終わっていたように書かれていますが、馬場少年がまちをかけめぐっていた昭和23~24年にも確実に動いていました。
ほらね! 本に書いてあることを鵜呑みにしちゃいかんということですよ。
現場の人の声。そこに立った人のお話こそが、まちあるきの宝です!
■街道
回転橋をでて、小さな通りにはいりました。
門のある家がつづいていまして、こんな細路地に、ずいぶん立派な家がつづくものだと思っていると、ここは「街道」だった場所。
荷車一台とおれるとよかったわけで、この広さで十分ことがたりていたんですね。
そういえば・・・各地の生活道だと思っていた道が、「バイパスができるまでは国道で、その昔は**と***を繋ぐ唯一の道でした」と、よくききます。
もちろん、広い道路も必要ですが、「まちあるき」のときは
「人が歩いて」経済を動かしていた「みち」のほうがしっくりきたりします。(笑)
■片岡家
詫間には、片岡家・松田家など大きなお宅がいくつかあって、塩田時代にも勢力をわかちあっていたよう。
片岡家は、その中でも「片岡塩業組合」という一族の組合をつくっていた大庄屋。
詫間のまちあるきでは、片岡家の「庭」をみせていただけます。
往時の贅沢の極み「和洋折衷住宅」が、美しい状態で残っています。細工のひとつひとつ、吹きガラスにうつる緑、屋根瓦がみせる美しいカーブなどなど、何時間みていても飽きない
美しい日本
を、感じる お宅です。
■料亭旅館
詫間の商店街には、たくさんの料亭旅館がありました。
その中のひとつ「魚定」さんでお話をききます。
詫間で作られる「船」は、沈まない船として日本全国に知られており、その造船技術を求めて、たくさんの船主があつまってきました。
その船主や、こんぴら詣での人たちが泊まる宿として賑わっていたのです。
■宮ノ下銀座
詫間は、漁業、塩田、造船、航空隊・・・という「男のまち」の顔をもつまちであり、それを支える気っ風のいい「女のまち」でもあります。
ガイドさんの話をききながら、まちの人の声にふれながら歩いていると、活気あふれる当時の様子が見えてくるようです。
宮ノ下銀座と呼ばれる商店街では、毎日のように喧嘩もあったようですとガイドの塩田さん。火事と喧嘩が江戸下町の風物だったように、活気あふれる町には、血の熱い人が集まってくるんですね!
■安藤醤油店
創業明治28年の、安藤醤油店も、詫間の歴史をみてきたところ。
昭和元年にできた「現在の店」が今も現役です。作りつけの大きな金庫や、昭和元年から一度も割れずに残っている、お店の正面のガラス。
昭和の贅を感じます。
4代目の女将さんのおはなしも楽しく、ここで醤油を味わいます。
そんなこんなで2時間30分。
海辺の「三崎」さんで、軽く食事をいただきながら、本日の反省会。
調査指導をしていた、S藤隊長や、S谷隊員、宇多津の玉井ちゃんや西川くん、三豊のほかの町のみなさんからも、いろいろ大事な指摘があり、
青井さん、塩田さんも、4月にむけての微調整にはいります。
******************
今回は、商工会のみなさんが中心となっての、詫間の商工をコンセプトにコースが作られています。
けれど、詫間には、ほかにもいっぱい楽しさがあるようで、帰ってきてから検索をしていると、
あしたさぬき「あいしいもの日記」のさらだくらぶさんが、「荘内半島浦島太郎伝説廻りはいかがでしょうか」、と、レスポンスをいれてくださってました。
■まちあるきは、大きな移動ができません。
せいぜい3時間、3~5キロ。
でも、バスで点をつなぐだけの「旅」ではない、コアな楽しさがあります。
そして、旅を職業にしているひとではなく、その「まちの人」の人が、「愛するまち」をご案内するという形である限り、
「うちのまちには、なにもない」
なんてことは、絶対ないのです!
「あなたのまちを愛する」ことからはじめてみませんか?
「あなたの愛するまち」を、私に紹介してくれませんか?
るいまま
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まちかど漫遊帖2008春編 予約状況もええ感じで、人気コースはどんどん埋まっていってますので、ご予約お早めに!!
【四国高松るいままyoutube】
http://ruimama.ashita-sanuki.jp/e1202617.html
【髙松まちかど漫遊帖】
まちかど漫遊帖オフィシャル 漫遊帖2023春コースリスト
Posted by るいまま at 12:07│Comments(6)
│仕事
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先日のたま平に引き続き、次はるいままによる三豊市詫間町のまち歩きレポートです。じっくりご覧下さい。参加したくなります。
→ ぶら...
→ ぶら...
【三豊市】ぶら〜り みとよ(詫間編)【みっふぃーちゃんの香川情報(観光ポータルサイト)】at 2008年03月24日 23:45
この記事へのコメント
力作!るいまま。
春のようにウララカな筆致。
また、夜、じっくり読みます。
春のようにウララカな筆致。
また、夜、じっくり読みます。
Posted by モバイル天涯 at 2008年03月24日 15:20
『へんこつパン』!!
社長さん元気でしたか??
前の職場の時にはお世話になっていました。
『ワシの親父の名前があんたと同じやからアンタ嫌いや!(笑)』と言われたのを思い出します。
三豊の方のまちあるきは魅力的ですね・・・。
愚痴になるから言いませんが・・・丸亀は・・・・・・。
るいままもお元気そうで何よりです!
社長さん元気でしたか??
前の職場の時にはお世話になっていました。
『ワシの親父の名前があんたと同じやからアンタ嫌いや!(笑)』と言われたのを思い出します。
三豊の方のまちあるきは魅力的ですね・・・。
愚痴になるから言いませんが・・・丸亀は・・・・・・。
るいままもお元気そうで何よりです!
Posted by らくしょう at 2008年03月24日 16:19
天涯
まちあるきは ええリハビリですわ
人見知りで、引きこもりな私が こうして生きていけるのも
まちあるきのおかげかと(笑)
まちあるきは ええリハビリですわ
人見知りで、引きこもりな私が こうして生きていけるのも
まちあるきのおかげかと(笑)
Posted by るいまま at 2008年03月24日 16:27
らくしょう
丸亀も一回よんでくれたら 話するんですが
なかなか声がかからんのですよ
へんこつパンのおじさん 元気でした〜
丸亀も一回よんでくれたら 話するんですが
なかなか声がかからんのですよ
へんこつパンのおじさん 元気でした〜
Posted by るいまま at 2008年03月24日 16:29
牟礼も塩田はありましたよ~。
道具の名前は鍬「えぐり」じゃなくて柄振「えぶり」だと思います。
ちなみに、M社長のおじいちゃんは柄振大工。
柄振の材料は桜の木。硬いからだそうです。
道具の名前は鍬「えぐり」じゃなくて柄振「えぶり」だと思います。
ちなみに、M社長のおじいちゃんは柄振大工。
柄振の材料は桜の木。硬いからだそうです。
Posted by GONBE at 2008年03月24日 18:58
GONBE
定かではないけど「えぐり」ってメモがあるんですよ。
塩田は、瀬戸内沿岸の遠浅の海には見られ、一時は、塩田によってまちが作られていた時期もあるようです。
屋島銀座を歩いたときも、いろいろ教えていただきました。
定かではないけど「えぐり」ってメモがあるんですよ。
塩田は、瀬戸内沿岸の遠浅の海には見られ、一時は、塩田によってまちが作られていた時期もあるようです。
屋島銀座を歩いたときも、いろいろ教えていただきました。
Posted by るいまま at 2008年03月24日 19:46
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