2013年12月28日
家 育んだ時間

たぶん、家は物ではないのだ。
私が、いま、事務所に使っている家は、若い頃、娘と暮らしていた家だ。
子どもと一緒に暮らせる時間は短い。でも、一番元気な頃だ。
朝は早いし、仕事は重なって、いつも何かに追われているようだったのに、大いに笑い、大いに泣き、
毎日が忙しく過ぎていた。
その忙しさの全部が思い出で、その思い出の中には、成長していく娘がいる。
年末の大掃除は、一大イベントだった。
窓を磨く私、網戸を洗う娘。
床を拭いてワックスを伸ばすと、足に雑巾をつけた娘がつるんつるんと滑る。
小さな家は、一年ぶんの汚れを落としながら、思い出をひとつ重ねる。
志望の大学にいけないとわかった日、彼女はその足で予備校の寮にはいることを自分で決めてきた。
「ママといたら、楽しすぎて、遊びすぎて勉強せんから」
あのときが、子離れ親離れの瞬間だった。
娘が大学に行ったあとに買った新築マンションは、美しく機能的で機密性も高い。
南向きの大きな窓は、年に一度業者に頼んで磨いて貰えば、そう汚れもしない。
娘の部屋には、彼女が小さい頃買った箪笥とベッドが置いてあるが、ここで彼女がくらしたことはない。
マンションの暮らしは、不自由のないものだったが、
癌になった年から、私は一年の大方を、この築60年のアパートをリフォームした、小さな家で暮らすようになった。
暮らし始めたときは、仕事が忙しく、こちらの方が何かにつけて便利だからと思い込んでいたが、
それは、崩れそうになる自分を認めたくなかっただけかもしれない。
今日、掃除をしながら、次々にあふれでる思い出に、
あぁ、私は、ここにいたから救われたのだと気付いた。
家は、ものではないのだ。
ここで育んだ時間こそが家なのだ。
あれこれあれこれ考えるとき、ここには生きてきたヒントがたくさんある。
救われる答えがある。
Posted by るいまま at 07:30│Comments(0)
│■るいまま
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